
私は海外天津人の李振溪です。
1963年に生まれ、天津で育ちました。父の李江岸は、1954年にインドネシアから祖国の中国に帰国した華僑です。父は大学での仕事の傍ら、長年にわたり華僑関連の公益活動に携わり、全国華僑連合会から先進個人として表彰されました。私は幼い頃から父の華僑活動への情熱を間近で見ており、自然と華僑活動に強い興味を持つようになりました。
そのため、自分は日本に移住してからも、中華文化の普及や中日友好交流の促進に尽力し、在日華僑のための活動を続けてきました。
引用:《天津文史資料選輯第125輯:海外天津人》
2016年天津人民出版社刊(李振溪自述)

誕生
● 1963年12月14日李振溪さんは天津の知識人家庭に生まれ、両親はともに大学の外国語学部の教師だった。
●父親の故郷は福建省安溪県で、インドネシアで生まれ た父親は1950年代初頭にインドネシアから祖国に戻り、新中国の建設に参加した愛国華僑だった。
そして、河北大学の外国語学部を卒業後、そのまま大学に残って英語を教えていた。
●母親は生粋の天津人で、父親とは大学の同級生だった。 卒業後、天津师范大学でロシア語の教師をしていた。
●家族には1歳半年上の姉がいる。
●李振溪という名前は祖父がつけてくれたもので、「故 郷の安溪を振興する」という意味が込められている。
童年時代


少年時代

高校2年生時 1981年春
●中学から日本語を学び始めた。

青春(大学)時代

1983年本棟5階の中央ホール

1984年

1983年 天津大学専家楼、池上先生の家

1982年4月末、初めてのアウトドア活動——盤山登山

81期生の卒業前記念写真



81期学部生、82期修士課程生の卒業30周年記念行事に参加した先生と卒業生による記念写真2015年10月
優秀な大学教員へ




南開大学対外漢語学院で教鞭を執り、同時に外国語学部英語専攻の第二外国語としての日本語教師を兼任し、さらに外事処の実務業務にも従事していた。
外事業務に携わる中、多くの日本人教師や南开大学との交流活動に参加した日本人学生と知り合い、その中には彼の生涯の友人となった人々も居た。
●この時期、李振溪さんは生涯で最も重要な伴侶者となる李軍さんと出会った。
新たな人生の旅立ちへ



12月には、最愛の妻と日本での再会を果たす。

高曉東さんの家に宿泊し、当時3歳くらいだった彼らの長男、光光を抱っこ。一緒に寿司などの美味しい料理を楽しみ、車で花火見物にも出かけた。
来日して間もなく、様々な分野で頭角を現し始めた


2015年に第三期会長に就任し、忙しい中国語教育の仕事の合間を縫って、同郷会や天津の在日同胞のために精力的に活動に取り込む。
活気に満ちた在日天津同郷会



『天津飯』との縁


後に、天津とゆかりのある日本の友人である近藤久義さんからの推薦で、「天津華風」誌に掲載した。
「天津華風」は天津在住の日本人が創刊し、日本人向けに発行されている総合情報誌だ。
この記事を通じて、李振溪さんが博学多才であり、また文化的な教養の造詣が深いことは伺える。
2013年11月 天津風華広告MDに掲載

写真は近藤さんが亡くなる直前、2021年9月ご自宅を李振溪さんが訪れた時だった。
天津当局は近藤先生への感謝を表すため、彼を「近藤久義天津情缘档写真展」の除幕式に招待したい意向があった。李振溪さんは何とか近藤さんを見つけ出した。
しかし、近藤さんはすでに飛行機に乗れるような状態ではないという状況を当局に伝えた。
近藤さんが亡くなった後、同年の9月末、天津市政府から「天津名誉市民」の称号を追贈された。李軍さんより
才能が開花し、収穫期を迎える

集・創作チームを代表して母校にその文集を贈呈。
右から左へ:当時の学長・龚克さん、李振溪さん、张国璐さん
この100周年記念の式典において、李振溪さんは特別な貢献をした優秀な校友に選ばれた。

南開大学の優秀校友に選ばれる

の表彰を受けた。




在日外国人のお手本

け込む模範となった。そのほかにも、子どもの学校のPTA会長を務めていた。
恩師を敬い、校友を愛す。

の家で懇親会を開く。

宿舎(新華社東京支社)で懇親会を開く。

東京支社)で懇親会を開く。

支社)で餃子パーティーを開く。




場所:天津飯店


池上先生ご夫婦をはじめ、日本語学科
79、80、81、85年生の同級生が参
加した特別な集まりでもあった。

囲む歓迎会にて
(左列一人目は、宋さんのお嬢さん)
郷愁深く、母校を愛す


副学長一行と共に東京で懇親会を開く。




の77歳(喜寿)の誕生日を祝う。

日本を訪問中、南開大学の一部の同窓生と共に天津飯店で
懇親会を開催。
(吕聪敏先生は南開大学外国語学部英語専攻の出身で、1963年に卒業後、外交部に勤務し、全人代外事委員会の副主任を務めていた。)

様々な社会活動で大いに活躍

李振溪さんは 2009 年《アジア留学生·就学生と交流する会20周年記念誌》への寄稿だ。
月日のたつのは早いもので、 2009年が早くも一カ月を過ぎた。「アジアの留学生·就学生と交流する会」恒例の新年会は正月の楽しみの一つとして、息子二人を連れて参加した。 恥じらいながらピアノの一曲を弾いた長男を見て、「パパ、何でこの会があるの ?」と次男からの質問を聞いて、 さすがに 「光陰矢の如し」 という言葉が脳裏に浮かんできた。
「アジア留学生と就学生と交流する会」 に出合った時の感動は今でも忘れられない。


60歳(還暦)を迎えた参加者と記念写真




校友の絆

1987年9月から1991年の夏にかけて、多くの恩師や友人の温かい支援を受け、無事に学業を修了した。私は新中国成立後、正式に大学院に進学し、博士号を取得した初めての重度障害者となった。
今日までに、10万人以上の障害を持つ学生が学業を修了し、さまざまな分野で活躍していると聞き及んでいる。
新型コロナが猛威を振るう少し前、
再会し故郷で気持ちを述べ合う

(日本)校友と南開(大学)

才能が開花し、収穫期を迎える
2016年秋、自らの会社「株式会社春陽カルチャー」を設立し、自ら社長に就任。中国語、日本語、英語の教育や翻訳などの業務を展開。







隣人でもあった河北大学の周慶基教授から薫陶を受け、篆刻の学びは小学生時代に始まり、生涯にわたって続いた。


父親への深い愛

「椰岛风帆远
津门雨露深」
1999年6月、父親が逝去。李振溪さんは父親の墓碑に
椰島(やしま)の風帆(ふうはん)遠く(とおく)、
津門(つもん)の雨露(あめつゆ)深し(ふかし)
と記した。
家族への深い愛情
家族でルーツを探る旅へ


のメダンにある華僑学校に寄付。



2024年 人生の旅を再び天津へ
家族





风雨同舟、一路相伴
彼此温暖、三十余载
風雨を共にし、
道中を肩を並べて歩む。
温め合っては、
三十年余りの歳月が過ぎてゆく。

日専81期のクラス長だった石雲艶夫妻を迎える歓迎同窓会で、李振溪さんの笑顔と表情はいつもと変わらず、とても素敵で輝いていた。
本当にこの瞬間が永遠に止まってほしい。


思いもよらず、6月16日の懇親会からわずか5日後、李さんは突然に発病し、緊急入院し手術を受けた。12月18日に悪性脳腫瘍のため、治療の甲斐もなく亡くなり、享年61歳だった。
我々はが李振溪大好きでした。

最後にもう一度言いたい:李振溪さん、ありがとう!あなたと出会いにありがとう!
“李振渓さんは南开が大好きでした。”



所欲不求大 得歓常有余——李振溪さんの人生の座右の銘
「欲することは大きく求めず、得られる喜びは常に余る。」
李振溪さんはご臨終の前、人生をこう振り返られた:
“我这辈子过得还不错吧!”
「俺の人生、まあまあ良くできた
のではないでしょうか。」
